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手結の価値・魅力(3)

手結の価値・魅力(2)の続編です。

手結の魅力的な景観は、内港だけではありません。その街並みにも、いろいろと特色があります。特に、裏側の狭い路地は素晴らしい空間です。

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国道55号より見た、手結の街並みです。

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手結には、主にかつて街道だった道沿いに伝統的な様式の民家が残存しています。ただ、街並みを形成するほど多く残ってはいませんし、そもそも街道そのものが短いですし。この辺は、商業的なエリアでした。造りの良い商家だったからこそ残っていると言えます。

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旧街道の様子。奥へ行くと、かつては手結山越えという難所です。トンネルができてそういう先人の苦労も忘れつつあります。

港の周辺にもあるにはあるのですが、そちらは主に漁師が居住していたエリアでして、民家のつくりも商家よりは立派ではなく平屋が中心でした。狭小で老朽化ということもあったので、戦後には多くは建て替えられて2階建てになっています。ただそれでも、地元の大工さんが建てた日本家屋が多く、家並みの風景としては全然悪くはないのですが。

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最も立派で最も古いと思われる民家。江戸末期の建築と聞いていますが、詳しいことは忘れました…。

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残念ながら、今は現存しません。商港として繁栄した時代を偲ばせる建物でした。なくなってしまったことが大変惜しまれます。

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常夜灯とそこにとまるカラス。背後の建物。なかなかいい構図でした。右の公衆便所が邪魔でしたが…。

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いつからあるのでしょう?どことなくレトロな消火用ホース置き場です。「高知資産」にものっていました。

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街道より路地に入ったところです。昭和40年ごろよりほとんど変わらぬ光景。奥の小さなトンネルみたいなものは、かつての土佐電鉄安芸線の遺構です。上を電車が走っていました。

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銭湯だったという建物です。こちらも「高知遺産」に登場してました。

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その銭湯跡から内港方面を見たら、山の上にはちょうど海風荘が目に入ります。

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手結内港を取り巻く道の裏側の路地は、迷路のように入り組んでいます。非常に狭く、人ひとりが歩くのがやっとというようなところも多くありますし、階段になっている箇所もあります。

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港の周辺は、すり鉢状の斜面地ですので、路地もだんだんと斜面を這い上がります。それが複雑な路地空間を構成している要因の一つでしょう。もはや、路地は路というよりは、家と家の隙間と形容したほうが適当でしょう。本当に隙間を通らないと到達できない民家も存在しますし。

路地には自動車が入ってきません。というか入れません。それは大変重要なことだと思っています。車社会の進展と過疎化により、空き家になった部分が駐車場になることはよくあることですが、それは手結でも例外ではありません。車が通れる道沿いには、駐車場が出来て街並みが歯抜けになった部分は多く見られます。しかし、路地内でも空き家が取り壊されて空き地になった部分はありますが、さほど多くはありません。

路地は、モータリゼーションから開放される空間です。自動車に怯えて歩く必要は全くありません。完全に歩行者のための路です。自転車は走れます、小学校のとき「自転車おにごっこ」をやってて路地を爆走して、立ち話をしているオバサンに、「何度も何度も、自転車で。こわい!やめなさい!」って怒られてしまったこともあります。

狭い路地と密集した家々、まさに漁村らしい空間ですが、大都市の密集市街地のような息苦しさはまったく感じられません。むしろ憩える場所です。それなりに隙間がありますし、背後も路地脇も緑に覆われ、路地脇には小さな水路がありますので、そういうのが心地よさにつながっているのでしょう。

こういう空間は、大事にしていってもらいたいと思いますね。間違ってもそこに自動車が入ってこれるような道を通して…というようなことはあってはならないと思います。

その(4)へ続く。

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手結の価値・魅力(2)

手結の価値・魅力(1)の続きです。

今回は、ほとんど紹介されない手結外港の様子と、魚揚場の風景を取り上げます。

画像は一部を除き、クリックで拡大できます。

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手結外港の様子です。こちらは言ってしまえば何の変哲もないコンクリートの防波堤で囲まれたごくありふれた港です。それゆえ見過ごされがちですが、手結港の近代化には大きく貢献しました。

明治期には、手結内港の入り口が土砂で埋まり船の出入りが出来ず、廃港同然だったそうです。そのため、漁船は西側の手結の浜(旧手結海水浴場)に、引き揚げていたそうです。せっかくの港がありながらなんというモッタイナイ様…。

そういうこともあって、大正初期に川村益太郎氏の尽力により外港が造成されました。その時に浜の一部が埋め立てられ、今でも手結地区の一部は埋立と呼ばれています。

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外港に面した漁業施設。漁協事務所と魚揚場、製氷場が一体的に整備されています。かつては、対岸にありましたが老朽化が進み、新外港を新たに造成した関係でこちらに移転しました。

当然ながら、手結では古くから漁業が営まれてきました。土佐の漁業の特色である、カツオ漁も、清水や宇佐、須崎、久礼などには到底及びませんが、江戸時代には営まれていました。明治期までは鰹節製造もあったそうです。(「夜須町史上巻」による)

手結の漁業で特徴的なのは、シイラ釣りでしょう。昭和初期より始まったそうです。

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魚揚場の様子です。

2008年12月4日に水揚げされた魚。

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シイラ。シイラ漁は、高知では手結と興津の漁師が専業で営んでいます。

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その他いろいろ。

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魚揚場の脇では、イワシなどが天日干しにされていました。こういうのがあると漁村の風情をいっそう醸しだしますね。

古くから捕鯨業が発達し、戦後はマグロ遠洋漁業で世界の海へ進出した室戸や、カツオ漁のメッカである清水や佐賀には、足元も及びませんが、県下では中程度の規模を誇る漁村としての地位を確立してきました。かつては、商港としての機能も発達していました。

しかし、戦後は一貫して漁業従事者数は減り続け、現在では風前の灯火というところまできています。もはやすでに「元漁村」というところまで来ています。高齢化が進み跡継ぎもいません。集落そのものも極度に高齢化と過疎化が進んでいます。

入り江地形で、港があり漁船が繋留され、狭い平地に民家がひしめき合う景観は、大いに漁村としての風情を持っています。映画『MAZE 南風』の舞台にもなったように、その景観的魅力は、大きな価値を持っています。ですが、集落の基幹産業は、もはや壊滅寸前。農村と違い集落の土地そのものは生産手段ではありませんので、漁業がなくなればただの住宅地になってしまいます。

それがいい悪いという問題ではもちろんないのですが、何かと新たな活路を見出していく必要はありそうです。

もう少し、手結内港の情緒ある風景写真を追加しておきます。

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その(3)へ続きます。

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手結の価値・魅力(1)

これまでも当ブログにて、「高知の湘南 夜須町」シリーズなどで、夜須町手結について取り上げてきました。

大特集! 「高知の湘南 夜須町」
12月7日の手結港
「高知の湘南 夜須町」 <第二弾>
「高知の湘南 夜須町」 <第三弾>
「高知の湘南 夜須町」 <第七弾>

今回は、いままで撮りためてきた写真の整理も兼ねて、夜須町手結地区の特色や魅力を紹介していきます。

手結地区は、夜須町でもごく一部分ですが、昔より夜須より手結の方がはるかに有名でした。私が、土佐塾中学校に入学したとき、びっくりしたのは高知市内の多くの同級生は、「夜須町ってどこ?」っていう反応。これには正直参った覚えがあります。しかし、後々分かってきたことは、「手結」ならみんな知っているということです。

どうやら町外の者にとって「夜須=手結」だったのでしょう。「手結海水浴場」と「手結山の餅」、「手結の盆踊り」と、すべて手結が前面に押し出されていました。かつての土佐電鉄安芸線も、手結駅は駅員さんのいる立派な駅でしたが、夜須駅は1面ホームの無人停留場でしたし。夜須と冠するものがほとんどなかったように思います。

手結の歴史は古代にさかのぼるとか。

 土佐ローカリズムちや 手結の古代

何しろ、中世時代より手結湊としてして知られていたそうです。高知県東部の海岸地形は、基本的に砂浜か岩礁で、船を安全に繋留できる天然の良港は、手結と甲浦しかありませんでした。江戸時代初期には、野中兼山が指揮して立派な港湾に整えられますが、それも土佐と大坂・神戸を結ぶ航路上で避難港としての重要な役割があったからこそでしょう。

また、手結という地名は不思議な響きがします。夜須もそうです。手結という地名のルーツは、地形が手を結んでいるように見えるからとか、労働交換の「結い(ゆい)」からきているとか、諸説があります。。

ナカちゃんは、「手結はおそらく万葉集の手結(たゆい)が浦からきちゅうとは思います」と書かれていますが、どうもアイヌ語に通じる語感があるとか。調べてみたらこんなのが出来てきました。

土佐の地名 寺田寅彦

手結《テイ》 「タイ」森[#「森」に傍点]。これではないらしい。あるいは「ツイ」切れる[#「切れる」に傍点]か。ビルマでは「テー」砂[#「砂」に傍点]。出雲の手結[#「手結」に傍点](タユイ)とは必ずしも同じではないかもしれぬ。

うーん…。正直なところ、よくは分かりませんが、他のアイヌ語らしい地名を見ると、海岸地域がかなり多いことが分かります。夜須もその一つですし。北海道でも、アイヌ人はもともと漁業民族で海岸に集落を形成していたことからも、アイヌとの関連性がありそうです。

手結の写真を紹介していきます。画像は、基本的に横700ピクセルで統一しており、クリックで拡大可能です。

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毎度お馴染み、歴史的港湾「手結内港」の写真です。藩政初期に、造成された日本最古の掘り込み港。現在も基本的な港湾の構造は、当初と変わっていません。この今も立派に現役で使われている、江戸時代の社会資本です。

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同じく。

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野中兼山の公徳碑です。竣工年は諸説あって、1653年とも1657年とも言われていますが、いずれにせよ350年以上の歴史を持つ、貴重な土木遺産です。

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海風荘へ行く、山道の中腹から見た手結内港と手結の街並みです。

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昭和50年(1975年)当時の手結地区を写した航空写真です。まだ、新外港はありません。上空から見ると、集落の入り口の両側に山がせり出していて、手を結んでいるように見えます。上から見ても美しい集落です。内港の周辺に張り付くように、集落が発達しています。

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雪化粧した手結内港。2008年2月13日撮影。雪など滅多に積もらない高知の海岸部ではこういうことは大変珍しいです、1年に1回あるかないかというチャンスです。ただ撮影したのが午前9時頃でして、2時間くらい前はもっと雪化粧していたそうですが…。

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国道55号の手結山トンネル脇より見た、手結の集落。手前の築堤は、かつての土佐電鉄安芸線の廃線跡で、現在は自転車道になっています。奥の立ち上がった構造物は、手結港可動橋。2002年9月、手結内港入り口に架橋されました。国道から、立ち上がった姿を見ると、誰もが「なんじゃ、ありゃー?」と不思議に思うとか。まあ、そりゃびっくりするでしょうね。

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その可動橋の上がっている姿です。昼間は、1時間おきに上下を繰り返します。夜は、上がったままです。

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降りているときです。

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手結内港と漁船と可動橋。可動橋は港の風景に溶け込んでいるのか、ミスマッチなのか?果たして??

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当時の、優れた土木技術を今に伝える石積み護岸。情緒たっぷりです。

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接岸部は、漁業関連の資材置き場と化しています。汚らしいという人もいますが、これはこれで漁村らしくていいでしょう。

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手結内港を取り巻く道路は、タイルで舗装されています。個人的には、いかにもという感じがするので、茶色のアスファルト舗装あたりが自然でいいと思うのですが…。

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可動橋脇の展望台(可動橋操作室を兼ねている)より。手結内港が見渡せます。

今回は、主に手結内港の風景を取り上げましたが、次回は外港と市場の様子を取り上げます。その(2)へ続きます。

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高知から持続可能な交通を実現する(86) 「高知県が今後進むべき道は?(その1)」

 けんちゃんのブログで、以下の記事がアップされている。それを元に話を進めていこう。

 けんちゃんの吠えるウォッチング 高知の環境を活用した産業育成を

 高知新聞2月9日(月)夕刊記事の特集記事「どう稼ぎますか?「県産振計画」に聞く」の第1回目の記事について記録を兼ねて書かれた内容である。

 要旨をまとめてみた。

高知県の工業出荷額がビリから2番目であることを嘆くことはない。最下位で結構だ。お決まりの企業(工場)誘致で県政浮揚というスタンスには大いに疑問。利益を外部に持っていかれるだけで、わずかな労働報酬と固定資産税しか地元に還元されず恩恵は少ない。大手量販店の進出も同じ構造。もともと高知に工業が根付く文化がなく、優位性に乏しい。不得意なもので頑張っても上手くいかない。高知は、農林漁業で地域的な優位性を持ち、それと一体となって工業文化が生まれた。地域学的優位性と地域文化を、再点検し、「伝統的工業技術」と「先進科学技術」を融合させて産業創出を図り、それが全国、世界に通用するなら積極的に外部進出を図るべきだ。「本当の評価額」は、工業の「内容」にこそある。全国一環境に配慮している高知県の工業と誇れるようにしていきたい。

 精読しての感想であるが、今後高知県が進むべき方向性を明確に示していると思う。大変、含蓄のある内容であり、大いに考えさせられた。

 高知県の工業生産額は極めて低いのはまぎれもない事実だ。実際に、大工業地帯と呼べうるような地域が存在しないことからみても明白である。それを多くの人は、経済発展の遅れだと言う。だからこそ企業(工場)誘致ということになるのだろう。

 私も、今でこそそうは思わないが、中学校のころなんかは、「高知は(社会の教科書に出てくるような)コンビナートもない遅れた場所だ。そんなんもないとは情けない。都会のように工場を増やすべきだ。」と、大真面目に思っていた。まあ、あの手の工場でガキの目からしたらかっこよく見えるものではあるが…。

 話がそれた。北村さんは、県工業会会長という立場ながら最下位で結構って言い放っているのである。そこには、よほどの洞察と信念があるのだと読み取れる。高知がどういうところかということを本質的に理解していないとそういう答えは絶対に出てこないだろう。

 もはや企業を誘致して県政浮揚、雇用創出とかいう時代ではないのは明白だ。企業も余裕がないなか、こんな不利な条件のオンパレードの地にやってくるだろうか?来ても利益をごっそり持っていかれ、未来永劫そこで操業を続ける保証もない。レポートの中にも、「高知でなくてもいいことは競争にさらされ大きな発展は望めない」とあるがまさにその通りだろう。余談だが、どうせ呼ぶなら工場や末端部でなく本社機能こそ誘致を目標にすべきであろう。そうなるには、「高知に本社があることのステータス」を創出しなけらばいけないので、高知の本質的価値を高めることと同義であるからだ。

 地域文化に根付いた産業を育てて高知県の発展につなげていくということは、私もかねがね考えてきたことなので、自分なりの考えも述べていこう。

 今となっては到底信じられないが、高知県で農林漁業の発展と一体となって様々な工業製品を生み出していたことは驚愕に値する。例えば漁業関連製品は、戦前期に、漁船本体のみならず、ラーンホイラー、捕鯨砲、焼玉エンジンなどが開発された。農業や林業関連でも、高知で生まれ全国へ広がっていった技術が多数存在する。

 高知の今後の産業創出において、原点をきちんと見直す時期にきているのは間違いないだろう。やはり、高知の土台は、農林漁業が基礎になっている。北村さんの意見と同様に、特に林業の可能性に着目したい。森林面積率日本一の県であり、工業とも結びつきが強いだけに大きな可能性がある。それこそ、生産から加工までの仕組みを構築し優れた製品を生み出せれば、高知県経済に新たな希望が見出せると思う。

 家具、インテリア分野では、高知の豊富な木材資源などを活用して、それこそ世界で通用する「高知独自のブランド」を生み出すことができるのではないだろうか。北欧ブランドとも肩を並べることも決して夢ではないと思う。

 建築分野だって、高知独自の資源や伝統様式を活かしつつ、先進技術も活用すれば、地域性のある風土景観が復活するし、新たな雇用も生まれ、地域内での自立にもつながる。地域性を無視した建築物がはびこる時代はすでに終わった。高知こそ新たな時代のトップバッターを切れる有利な条件を持っていると思う。

 何の変哲もない画一化された工業製品とは一線を画した、産出された地域の特色が感じられ、愛着を持って末永くつきあえる、そんな製品が望まれる。

 それは北村さんの言及している、「全国一の環境優良製品創出県」であり「全国一の環境配慮型生産方式」を実践していると誇れる工業界の実現とも全く矛盾しない。人にも環境にも優しい本物の文化を創出する産業へと育ってほしいものである。

(その2へ続く)

〔高知から持続可能な交通を実現する一覧〕

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ブログに過剰に期待してしまうのも無理はない?

 minor tranquilizer blog限界論:期待しすぎると失望も大きいよね

 ここに書かれていること、大いに同感です。全くといっていいほど同じ考えを私もしておりましたので、この記事を見つけて大いに驚いております。

 記事内に書かれているように、

社会の大きな変革に自分も関わりたいという気持ちが強い人ほど、そう思わせる新たなツールが出現すると期待過剰になり、それが社会の変革など起こしえないと知ると、大きく落胆する。

 実は私も、新しいことを始めるにあたって、かなり過剰な期待をしてしまうタイプでして、期待通りにいかずに何度もがっかりした記憶があるだけに、この文章には大いに共感しているところです。

 正直いうとブログの開設当初から大いなる期待をしすぎていた節はあります。

 インターネットは世界中につながっており、日本語で書いているということを差し引いても、多くの人に読んでもらえる可能性は大きいです。それは間違いないでしょう。今までは、直接人と会う以外に、情報を伝えたり人脈をつくったりということはできなかったわけですから、不特定多数に情報を休みなく発信できるツールを手に入れるということは確かに革命的な出来事ではあるわけです。コメントやメール通じて、作者⇒読者だけでなく、読者⇒作者の双方向の伝達も容易なわけで、もうこうなると過剰に期待をするのも当然といえるでしょう。何から何まで画期的なわけですから。

 私でもさすがに、ブログごときですぐに社会の変革ができるなどとは期待してはいないので、その点で落胆することは全くないのですが、新たな出会いや自分に情報が入って来るという面では過剰に期待して思い通りにいかずに落胆してしまう傾向があるようです。

 前にも書きましたけど、このブログを始めたきっかけは「つくば自転車活用プロジェクト」の経過を伝えるためでして、やはり手軽に広く伝えることができるメディアはブログしかないという判断でした。そこに、過剰な期待が出てしまって、他の団体ともネットワークが広げることができるとか、思いがけない情報を教えてくださったり、是非話を聞きたいとコンタクトを求めて来る人が出てくるとか、そのような期待感が大きかったように思えます。一言で言うと、「ブログで活動に大きな進歩があるはずだ」という感じです。

 また、それに平行して、各種の自転車に関する話題も書いていたのは、「はやく私も自転車言論者の一人として一人前に活躍できるようになりたい」という思いからでした。ブログ記事を書くことによって、その分野の方々ともっと交流が生まれるのではないか、いろいろ情報が入ってくるのではないかという期待感が強かったのです。

 確かに多少の出会いはありましたけど、そこから大きくステップアップしたということはなく期待はずれ感が強く、一時期ブログを書く気が全く失せましたね。それが最初にぶちあたった「ブログ限界感」だったのでしょう。

 次は、現在も連載を続けている「高知から持続可能な交通を実現する」ですが、今後どうなるか分かりませんが、今のところは苦戦を強いられていますね。書き始めた当初は、前回の屈辱もあって「今度こそっ!」っていう思いが強かったです。正直なところ、熱心に読んで熱い意見を言ってくださったり、思いがけない情報をもたらしてくれたり、交流が拡がっていったり、とそういうことがあればもっと面白くなるのですが…。ある人から聞いた話によると、「その筋の方々は、結構あなたのブログを読んでいますよ」っていうことでしたので、読まれるという面では成功しているだけ良しとしようか。

 確かに、アクセス数は増えたし、検索エンジンを通していろんな人が見に来ています。だからこそ、思いがけない出会いや思いがけない情報が入ってきたりと、そう期待したくなるのですが、なかなか難しいようですね。見て読むという段階までは来ても、そこからコメントを入れたりメールをしたりという段階との間には、とてつもなく大きなハードルが立ちはだかっているということでしょうか。下記リンクのように、発展できれば理想なのですが…。

 ブログで仕事が増えた! 世界が広がった!

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